ブルジョワは社会的弱者を支える義務を有する?
資本家→システムを利用して儲ける
労働者→継続してシステムを利用させられる。ワーキングプア
労働者自主管理の平等の思想に行き着くまでの歴史的な流れ〜その2「キリスト教」〜『自主管理とは何か?』より
さて今回も労働者自主管理の平等の思想に行き着くまでの歴史的な流れを思想を通じて見ていきたいと思います。
前回は「プロタゴラス」について扱いました。
今回はキリスト教に焦点を当ててキリスト教は平等の思想なのかどうか考えていきます。
【キリスト教は平等思想?】
まずは『自主管理とは何か?』の本文から読んでいきたいと思います。
「事実、思想が普遍的概念を発見すると同時に宗教は、天上の神々の争いを引き合いにすることを止めた。そして普遍性(カトリック的性質)を考えるにいたった。たしかにその時はまだもろもろの相違を一つのモデルに収れんすることだけが問題であった。にもかかわらず使徒パウロは、ギリシア人と蕃人、ユダヤ人と異教徒の昔からの対立をなくすように努めた。以後、人々は神に比しては小さな存在ではあるが、平等になった。…(中略)…神–恐怖から神–愛への移行は平等的共同体を生み出すことになる。」(p62)
天上の神々の争いとはギリシア神話のことでしょうか?少なくとも「神々の争い」というキーワードからどうやら一神教のキリスト教ではないことが理解できます。なぜ宗教が神々の争いを引き合いに出す必要があったのか、そしてその後どうして普遍性(カトリック的性質)を考えるにいたったのか。
これについてはよくわかりませんがキリスト教の歴史を勉強して再度記事を補足していきたいと思います。
しかしとりあえずわかることはそうした諸々の歴史の後、人々は神に比べて小さな存在ではあるが平等となったようです。
そして「神がなお保たれているとしてもこの神は人間に近づき肉体さえあたえられている。」
神様を宗教画や彫刻で描くようになり、今まで目にすることができなかった神様、そもそも人間の姿形をしているかもわからないその神様を人間に見立てて描くことで想像の中のものに肉体を与えることになったのでしょう。
「神–恐怖から神–愛への移行は、平等的共同体を生み出すことになる。」
さまざまな自然災害などの神罰をもたらす神様という怖い存在から先ほど述べたように芸術の中で肉体を与えられることで神様が愛するべき存在へ移行して、これが平等的な共同体を生み出すことになったのでしょうか。
〈キリスト教の位階制化〉
「カトリック教もやがて制度化され位階制的機構となったのは周知のところである。」(p62)
しかしキリスト教は次第に位階制的なカタチになり神の前での平等がはたして本当に実践されていたかどうかは議論が分かれるところでしょう。
【まとめ】
今日はキリスト教は平等思想なのか見ていきましたが、いかんせん私のキリスト教に対する知識不足でキリスト教に平等の思想が流れているのかどうかよくわかりませんでした。
旧約聖書、新約聖書のほか様々なキリスト教に対する本を読んでまたこの記事を書いていきたいと思います。
『新しい左翼入門 相克の運動したら超えられるのか』(講談社現代新書)から参照しますと38ページにはこんなことが書かれてあります。
「まずもって、日本最初の社会主義者たちが、こぞってキリスト教徒だったということに注意して下さい。内村鑑三が有名ですね。後に共産党の在外リーダーになる片山潜も、あとの説明で何度も出てくる山川均、大杉栄、荒畑寒村といた初期社会主義オールスターも、こぞって最初はキリスト教徒でした。」(『新しい左翼入門 相克の運動したら超えられるのか』、講談社現代新書、p38)
キリスト教の思想が必ずしも社会主義と似ているとは言えない部分があるかもしれませんが歴史を見てもわかるように社会主義の思想とキリスト教の思想には親和性があるように思えます。
労働者自主管理の平等の思想に行き着くまでの歴史的な流れ『自主管理とは何か?』
こんにちは、社会の夜電です!
暑い日が続きますね。
今回は『自主管理とは何か』から労働者自主管理の平等思想は一体歴史的にどんな流れをたどってきたものなのかをプロタゴラスから見ていきます!
今回は哲学の話が出てくると思いますので、よろしくお願いします!
まずこのブログの構成からです!
【この記事の構成】
今回からは、世界の特に西洋の思想を平等思想と不平等思想に分けて解釈していきます。
具体的にはプロタゴラスの思想、人間主義、キリスト教やデカルト、ニーチェ、レーニンの思想などを扱います。
なお、解釈の仕方によって簡単に二分するこのやり方がふさわしくない場合もあるかもしれませんが、ご容赦くださいませ。
今回はプロタゴラスについて扱います!
それでは早速プロタゴラスから見ていきましょう。
【プロタゴラスは平等思想?】
さてまずはプロタゴラスの思想について扱いますが、最初にプロタゴラスがどういう人物なのか見ていきましょう。
今回はWikipediaから参照しました。
〈プロタゴラスはどんな人か〉
「プロタゴラス(古代ギリシア語: Πρωταγόρας、Protagoras、紀元前490年ころ - 紀元前420年ころ[1])は、古代ギリシアの哲学者、ソフィストの一人である。」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9 検索日 2018年8月13日)
どうやらかなり昔の思想家であることがわかります。
次はこのプロタゴラスの思想を見ていきましょう。
《1 相対主義の面から》
さてまずはプロタゴラスの相対主義の思想について見ていきましょう。
プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」という言葉で知られ、相対主義を唱えた人として有名です。
まずはそこから見ていきます。
「プロタゴラスは、ある人には風は温かく感じられ、別の人には冷たく感じられるので、風そのものは温かいのかそれとも冷たいのかという問いには答えがないと述べた[1]。このような見解は、「万物の尺度は人間である」という彼の有名な一節に凝縮されている。簡単に言えば判断基準は自分自身という人間なのである。万物の尺度を科学的で客観性をとる原理や観測ではなく、自分という人間の主観がものさしとなる感想や意見が万物の尺度の一つであり、絶対的判断基準はなくそれぞれの人間の思いとするものである。人間には絶対的な共通の認識はないとするものである。」
(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/相対主義 検索2018/8/13)
プロタゴラスの考え方は判断基準が自分自身に委ねられている相対主義の思想です。
各々の人間それぞれが主観的に考えるので絶対的な判断の基準がないのです。
どちらが優れていてどちらが劣っているということがないので、平等思想か不平等思想か、どちらかに二分するとなれば当然平等思想になるでしょう。
《2神様への疑問の面から》
さらにプロタゴラスは神様を否定するようなことも言いました。
「プロタゴラスは『神々について』という書物の冒頭で、次のように述べたため、「不敬罪」で訴えられ、アテネから追放され、その著作は回収されて広場(アゴラ)で焼却された。 (引用)神々について私は、あるとも、ないとも、姿形がどのようであるかも、知ることができない。これらの各々を私が知るには障害が多いから。その不明瞭さや、人間の生が短いこと。<納富信留『ソフィストとは誰か?』2015 ちくま学芸文庫 p.29>」
(https://www.y-history.net/appendix/wh0102-135.html)
前述されているようにプロタゴラスは神様が存在するかどうかわからないと言っています。
その意味で、これまで盲目的に「神は存在する」と信じてきた人たちとは違います。
プロタゴラスの神への疑い、疑問が人間性というものを、少なくともそれ以前の時代よりも重要視していることがわかります。
《プロタゴラスの思想は平等思想?》
「プロタゴラスのような哲学者が人間は万物の尺度であることに気づき、したがって人間の投影に過ぎない神々に疑いを抱く時、彼は同時に同時にすべての人間が、自己の内部に完全な人間性をもっていることを理解していた。また人類の運命が、すべての人間の掌中にあることも理解していた。祈りが終わり実践が始まる。」(『自主管理とは何か?』、p60)
プロタゴラスは神様に疑いを持ち、また全ての人は考える生き物だということを理解ていました。
プロタゴラスにとって人間の運命は神様に操られるものではなく「万物の尺度は人間である」のです。人間の自立性、神から独立した人間の自由の思想がこの中に含まれるのです。
よってプロタゴラスの思想は平等思想にかなり近いのではないかと考えられるようです。
今回はプロタゴラスについて扱いました。
『自主管理とは何か?』イボンブールデの考える自主管理とは
さて今回で取り上げている
『自主管理とは何か?』の第1章の部分が終了します。
深く読み込んでいくとかなりの時間がかかりました。
これからも読み進めたいと思います。
さて今回は本書の著者イボンブールデが
自主管理についてどんな見解を持っていたのか探っていきたいと思います。
もちろん本書の全体にその見解は散りばめられていますが今回は第一章のみ扱います。
第一章の最後でかれはこんなことを書いてます。
「経済を自主管理することは、資本主義経済を自主化することに還元されない。その基盤を変えることにあるのだ。私的資本主義、国家資本主義は、しばしば労働の自主管理と対立するテクノロジーを使用してきた。ために以下の問題が、変革のための自主管理計画の職分となる。
(a)機械設備の形態
(b)生産物の終局目的
…(中略)…自主管理された計画化とは、従来と違った形で計画化することではない。従来とは違ったものを計画化することなのだ。こうして判明するように真の経済的自治、計画の自主管理は、生活を変革するのに至るものである。」(本書p56より)
この文章だけ見ても何のことやらサッパリだと思います。
詳しく説明しましょう。
【第一、第二文】
「経済を自主管理することは、資本主義経済を自主化することに還元されない。その基盤を変えることにあるのだ。」
第一、第二文では、経済を自主管理するには
資本主義経済の基盤を変えなくてはならないと言っています。
では資本主義経済とはここでは何を指すのでしょうか。
そしてアメリカやイギリスを中心とする資本主義、自由主義経済の国の両方を指しています。
ソ連、中国が資本主義経済として本書の中で扱われていることに疑問を感じる方もいらっしゃると思います。
しかし、世の中にはこれらの共産主義国を資本主義の体制だとして扱う人たちがいます。
彼らはソ連のような社会主義を国家資本主義や官僚制的資本主義国だと言います。
なぜなら国が全てを牛耳って労働者から収奪するというソ連型の社会主義は国が一つの会社になった形態と同じだからです。
資本家に代わり国が労働者を働かせて、賃金を与える。資本家の役目を果たすのは共産党の中央委員会。
全くもって同じ形態だと思いませんか?
第一、第二文ではソ連型のような社会主義を含めた資本主義の基盤を変えなくてはいけないと言っています。
第三文に移りましょう。
【第三文】
「私的資本主義、国家資本主義は、しばしば労働の自主管理と対立するテクノロジーを使用してきた。」
第三文には
「私的資本主義、国家資本主義は、しばしば労働の自主管理と対立するテクノロジーを使用してきた。」と述べられています。
私的資本主義とは普通の意味での資本主義です。
国家資本主義とは先ほど述べた通り
ここではそれら資本主義が労働の自主管理と対立する仕組みを使ってきたと述べられています。
ではその仕組みとはどういったものでしょうか?
それは本書に要素要素として記されていることです。
見ていきましょう。
〈労働の管理と対立する資本主義に含まれる要素〉
①「…自分たちだけが一般の利益を考え、管理することができるという《啓蒙された少数派》-王権神授説の世俗形態–…」(p53)
②「他社管理は、多くの人々が少し離れたところでは飢え死にしている時に多量の食糧を消滅させることを経済的に必要としている。」(同上)
③「都合のよい誤謬推理により指導的少数派(指導者、あるいは制限された《集団》指導サークル)は、強制の必要から支配の正当性を演繹しようとする。」(p54)
④「主たる目的としては、どの生産物が人間の共同体にもっとも有益か決めることでない。資本所有者の利益を最大限増大させ、集権化された国家の力を強化することにある。」(p56)
①〜④を総合するとソ連のような社会主義を含めた意味での「資本主義」の仕組みは、権威者やお金持ちのために動く仕組みであり、社会全体が豊かになることについては考えない仕組みのようです。
さらに付け加えると、この「資本主義」の仕組みは支配を都合のよい解釈で正当化して、自らの富を増大させることを目標にする仕組みのようですね。
これがイコール資本主義の仕組みになります。
第三文に述べられていることは、そうした資本主義の体制が自主管理とは全く異なることを主張しています。
現代社会を見てもわかる通りですね。
続いて第四文以降を読み進めましょう。
【第四文】
「(a)機械設備の形態
(b)生産物の終局目的」
まず(a)(b)それぞれの意味です。
(a)機械設備の形態とは一般的に解釈すると機械とか設備のシステムのことだと思いますが、この意味だと、社会を変革するための自主管理計画が解決すべき問題として意味が通らない気がします。
そこで私は労働者に対する機械設備の形態と解釈してみました。
こう考えると、労働者が安全に扱うことのできる機械や設備を備えることが自主管理の目標だと考えることができると思います。
ここについては理解するのが難しかったので他に意見がある方はコメントで教えてください。
次に(b)生産物の終局目的ですが、この意味は生産された物が資本家や権力者、指導的な少数派のために使われるという意味合いで間違いありません。
具体的に言い換えると、社会全体が豊かになるために生産物が用いられることがなく、資本家の利益を最大限に引き出すことを目的に用いられているということです。
(a)(b)をまとめると、自主管理を達成するために打破すべき問題は、(a)労働者の安全が確保されていない機械設備と、(b)指導的な少数派や権力者、資本家のために生産物が使われる仕組みを無くすという二点であるということです。
最後に(a)(b)以降を読んでいきましょう。
「…(中略)…自主管理された計画化とは、従来と違った形で計画化することではない。従来とは違ったものを計画化することなのだ。こうして判明するように真の経済的自治、計画の自主管理は、生活を変革するのに至るものである。」(本書p56より)
まず計画化の意味から見ていきましょう。
一般的に計画化は例えば一週間の宿題をどんな配分で行うか?とか、掃除当番で誰がどこの担当か割り振りするときに使うと思いますが、ここでは計画経済のことを言います。
計画経済とはソ連が中心となり行われたもので、労働者が何をどれだけ生産するかを国が決めて、そのノルマの分しか労働者は作らないという経済のしくみです。計画生産と言ってもいいかもしれませんね。
本文ではこの計画経済が計画化として言い換えられています。
それでは本題に戻りましょう。
「…(中略)…自主管理された計画化とは、従来と違った形で計画化することではない。従来とは違ったものを計画化することなのだ。こうして判明するように真の経済的自治、計画の自主管理は、生活を変革するのに至るものである。」(本書p56より)
ここでは自主管理された計画化が従来の体制とは違う計画化だと主張します。それもどういう形で計画化するかではなく何を計画化するかであり、また本当の経済的自治、計画の自主管理は私たちの生活を変えるとまで言っています。
では実際に自主管理された社会の中でイボンブールデは何を計画化することを想像したのでしょうか。
ここではいくつかその具体例を挙げてみます。
①「こうして自主管理支持者は計画化を認めているということがわかる。計画化といってもいわゆる有能な少数の専門家に役目(と利害で動く楽しみ)を委任するものではない。」(p55)
②「自主管理が、極めて聖なる経済、《計画化》と共存できるかを知ることが問題なのではない。自主管理がいかにして下から集権化され、支配ではなく制約を定めるもうひとつの違った形態を決定するかを理解することが問題なのである。こうした計画化は、《専門家たち》から経済的選択の特権を取りあげ、現在と未来をすべての人によって変えることができる何かにするのである。」(p55)
②で「自主管理がいかにして下から集権化され、支配ではなく制約を定めるもうひとつの違った形態を決定する…」とありますがこれが計画化の一要素になります。
「特権階級に経済の選択をまかせた今の日本社会と違い、私たち労働者という下の立場から、今の社会を支配ではなく、制約をすること」が計画化なのです。
なぜなら経済法則と経済政策との間には開きがあるからです。
「たしかに経済法則は存在する。しかし、その使用は、統治者により選択される政策から独立してはない。…法則に対する知識は、従うことにより指導する手段である。」(p55)
自然科学も数学も経済学も物理学もすべて現実の自然から生まれました。自然から人間が法則性を見つけて、それをまとめて現在私たちが教科書で目にする公式になったのです。
現在の経済法則は現実の人間の生産や消費という自然から生まれたものです。
自主管理された社会も同様です。
まずはその社会になってみないと経済法則云々の話は始まりません。
だから②「自主管理が、極めて聖なる経済、《計画化》と共存できるかを知ることが問題なのではない。自主管理がいかにして下から集権化され、支配ではなく制約を定めるもうひとつの違った形態を決定するかを理解することが問題なのである。こうした計画化は、《専門家たち》から経済的選択の特権を取りあげ、現在と未来をすべての人によって変えることができる何かにするのである。」とイボンブールデは記すのです。
以上今回はかなり長くなりましたが以上となりました。
2018年はかなり暑い夏となりましたが、熱中症に気をつけてくださいね。
ではでは!さようなら!
『自主管理とは何か?』第五回マルクスとバクーニン。それぞれのプロレタリアートの定義〜プロレタリアートとはなにか〜
今回も『自主管理とは何か?』を読んでいきます。
今回はこれまでと違ってマルクスとバクーニン。この二人が「プロレタリアート」という言葉をどのような意味合いで使ったのか読み進めます。
まずは二人がどんな人物か説明し、次にマルクスとバクーニンのプロレタリアートの定義、そして筆者の考えるプロレタリアートを端的にお話しして、最後に私たちの世代でのプロレタリアートの定義を考えていくことにしたいと思います。
【マルクスってどんな人?】
さて、まずはマルクスってどんな人なのか見ていきましょう!
マルクスの思想についてもさまざまな見方や意見がありますので、断定したある部分のみお伝えします。
マルクスは19世紀の思想家です。
ドイツ出身の思想家で世界的に有名な『資本論』という本をエンゲルスという友達と書きました。
彼の思想が(彼の理想に必ずしもあった形ではないかもしれないが)世界に影響を与え、革命が起き、ソビエト連邦や中華人民共和国などの社会主義国が建国される要因になりました。
【バクーニンってどんな人?】
続きましてバクーニンを見ていきましょう!
無政府主義の意味を説明するのはこれまた難しくて学者や団体によって色々な見解がありますが、暫定的な意味として国家を廃止してより良い社会を作ろうとする思想と思っておいてください。
彼の思想は現代にも影響を与えており、言語学者として有名なノーム・チョムスキーも彼の思想に影響を受けています。
【マルクスとバクーニン、それぞれのプロレタリアートの定義とは?】
ではマルクスとバクーニンのプロレタリアートの定義を見ていきましょう。
厳密には彼らがこのプロレタリアートというの用語を一体どのようなものか深く掘り下げて定義したかは不明ですが本書を用いて彼らのプロレタリアートという言葉の意味合いの違いや特徴を掴んでいきましょう。
まずはマルクスから!
〈マルクス〉
「プロレタリアートというのは単に《生産者》であるばかりでなく、マルクスが独特な用語を用いて言ったように《具体的普遍》、《人間という種属》でもあるという捉え方をする…」(p40)
「マルクスにおいては、革命的なプロレタリアートと経験主義的な労働者階級の間に絶えず概念の混乱がみられる。」
(同上)
「マルクスは労働者階級をまるでそれが完全に物化された存在であるかのように扱う傾向をみせている。」(同上)
「《肉体労働をする》労働者と《知的労働をする》技術者との間に経験的な隔たりがあるにもかかわらず、【マルクスの】プロレタリアートの概念は、賃金生活者の概念と同様、この両者を一つに結びつけている。」(p43)【】内は社会の夜電の補足による。
「マルクスがこの《プロレタリアート》という用語を選んだのは、元来は働く人間 travaille-ur、しかも肉体労働を行う人間の意味しかもたなかった労働者 ouvrier との対比のためであった。」(p49)
続いてバクーニンを見ていきます!
「プロレタリアートの中でも最も高貴な人びと、それは何よりあの大衆、あの何百万もの無教養な人間たち、恵まれない人間たち、貧乏人、文盲たちであると私は理解している。…彼らはブルジョワ文明によってほとんど汚染されていないため、将来の社会主義のすべての萌芽をその内部に、その情熱のうちに……宿している。」(p47)
最後に両者の相違点が引き立った文章をピックアップします。
「マルクスとバクーニンは(プルードンとは異なり)自由、プロレタリアートを概念として構築した。」(p45)
「マルクスが(バクーニンの反論にさいし)ローマの属領であった国々の労働者貴族*1を拠り所としたのに対し、バクーニンの方は、商品に対する物神崇拝とは全く無関係な《あの偉大な民衆的なごろつき連中》を拠り所としていた。」(p47)
*1[一八七一年九月、マルクスはつぎのように言っている。「労働組合は貴族少数派の代表である。貧しい労働者は組合に加入することはできない。」…](p47)
最後に筆者のプロレタリアートについての言及を参照します。
「労働を実践、世界をも変えうる人間の積極的な一部分としてみなしていたことは《マルクス主義》の(そして、とくに『一八四四年の経済学・哲学手稿』を書いた時点におけるマルクス自身の)重大な誤謬である。実際プロレタリアートは賃金労働を管理することではなくそれの廃止を目ざす場合にのみ革命的になる。なぜなら、プロレタリアートの主要な特性は働くことではなく働かないでいることだからである。」(p39)
「ブルジョア階級の《労働権》に、プロレタリアートは彼らの怠ける権利を対置させる。しかし、プロレタリアートが自分たちの階級意識を実現させ彼ら自身が《社会のすべての階級の解体を切り札とする支配階級となら》ない限り、プロレタリアートの絶対的多数は労動やブルジョア社会によって加工されたような姿で、つまり、革命ではなく改良主義(現代では、社会民主主義やスターリン主義等)を《目的》とする経験だけに頼るような、労働者階級としての姿を取りつづけることになるのである。」(p39)
「プロレタリアートの内面において疎外を超越しているもの、それは《疎外された労働》ではなく、労働拒否、自決権、普遍性である、と私は考える。」(p47)
「ブルジョワジーの否定がプロレタリアートである。商品に対する物神崇拝の影響をこうむっていて、しかも自分でそのことを知っているのがプロレタリアである。」(p50)
「プロレタリアートは、まず、ブルジョアジーとの対比において否定的な形で定義される(『共産党宣言』参照)。社会が二つの階級に政治的に分極化すること、それが–歴史における唯一の事実であると同時に–近代世界の主要傾向であるため、ブルジョワジーが生産手段を所有し、享受しているのに対し、プロレタリアートはそれを所有もしていなければ享受してもいない。…法律上の所有権はイデオロギー的上部構造にすぎず、それは別のもの、たとえば官僚制による生産手段の集団的所有のようなものによってもおき換えられうるのである。」(p48〜49)
『自主管理とは何か?』第4回 協同組合
こんにちは社会の夜電です。
暑いですね。
今年ある地方では41度を記録したみたいですね。
前回に引き続き今回も『自主管理とは何か?』を読んでいきます。
今回読んでいくのは「協同組合」の部分です。
協同組合と聞いて皆さんも思い当たる組織があるかもしれません。
日本で言えばJA全農、全労済、大学生協連、JA共済連などなど。
皆さんも一度はどこかで目にしたことがあると思います。
今回はその協同組合を自主管理と比較しながらどういう相違点があるのか本書から探っていきます。
構成としてまず協同組合の起源、次にマルクスの協同組合に対する理想とその現実、最後に自主管理と協同組合の相違点を見ていきます。
【協同組合の起源】
ここでは本書とは別に協同組合の起源をごく簡単に説明します。
協同組合はいつどこで始まったのか皆さんはご存知ですか?
協同組合は18世紀イギリスのランカシャー州で始まりました。
協同組合の名前は「ロッチデール先駆者協同組合」。
ロッチ中岡とは関係ありません。
この協同組合はロバートオーウェンという労働運動の先駆者、空想的社会主義者の思想を引き継いで建てられました。
ロバートオーウェン自身はルソー(日本の憲法や法律にまで影響を与えた世界的な偉人)やマルサス(有効需要論、過少消費説)らから影響を受けました。
以上が簡単な協同組合の起源になります。
次にマルクスの協同組合に対する重要な考えのいくつかを本書から見ていきましょう。
【マルクスはこう言った!~協同組合の理想と現実~】
世界に大きな影響を与えたカール・マルクス。
エンゲルスと一緒に資本主義の問題点を分析した偉大な思想家であることは皆さんもご承知の通りだと思います。
さてこの偉大なマルクス先輩は協同組合についてもいくつか言及しているようです。
まず、本書ではマルクスの『フランスの内乱』そして『資本論』を引用してマルクスの協同組合に対する意見をまとめています。
「彼にとって、協同組合団体は、それが《労働者の自主的な創造物》でない限り、また、《政府からもブルジョワからも保護を受けていない(11)》というのでない限り価値をもたないものだったのである。」(p33)
「労働者の協同組合は、…数人の労働者だけが行き当たりばったりに自分たちだけで努力しているのであれば、等比級数的に成長している独占に歯止めをかけることは、けっしてできないだろう。…勤労大衆が解放されるためには、協同組合は全国的な広がりを持たねばならないだろう。したがって、国有手段によってこの協同組合を促進する必要があるだろう。」
さらにマルクスがドイツ社会民主党綱領批判の中で明示していることについても本書は述べており、労働を解放するには労働手段が社会の共有財産になることと協同組合がによって規定されることが必要であるとしています。(p34)
以上。マルクスの協同組合に対する考え方のポイントは三つです。
①協同組合は国家や政府の介入を受けると無価値になる。
②資本主義社会を変えるには協同組合を微弱な力で行うのではなく巨大な力で進めなければならない。
③労働手段(働くために必要な手段のこと→ex)機械、道具など)を社会全体で共有することが労働者の権利を獲得することにつながる。働く活動全体が協同組合によってルール決めされることが必要。
では現実の協同組合はどうだったのでしょうか。
現実はマルクスの理想と反対の結果となりました。結果は悲惨なものだったようです。
本書の説明を引用します。
「マルクスの警告にもかかわらず、各協同組合はつねに地方的な形態の下で《成長》し、この地域分割が各協同組合を区分する目印にまでなっている…」(p35)
マルクスの理想の②はここで否定されました。
さらに①はユーゴスラビアの例により否定され、③のモデルはそもそも現実に起こることはありませんでした。
以上がマルクスの協同組合に対する理想と現実です。
最後に自主管理と協同組合の相違点を確認しょう。
【自主管理と協同組合の相違点】
ズバリ本書は次のように主張します。
「原則において協同組合と自主管理の間に相違はないが、歴史的に本質的な違いが現れたということが理解できる。国家が廃絶され、それに代わって全く新しい型の全国的組織が打ち立てられないかぎり、協同組合制度の拡大ーむしろ一般化と言った方がよいかもしれないーは行われえないのである。」(p36)(一般化の説明は本書の33〜34ページにかけて述べられている。)
マルクスの考えた協同組合の理想的な形と自主管理は同じだったけれども、協同組合の現実はそうではありませんでした。
また繰り返しになりますがユーゴスラビアの制度も国家と共存しているから、自主管理制度の一般化(国家からの介入を受けない協同組合のモデルに代わること)とは言えません。
最後に本書は次のように結論づけています。
「協同組合は単独では自主管理を生み出すことはできない。経済的、社会的なすべての構造を巨大な協同組合に変化させること、あるいはマルクスの用語を借りれば、「社会的生産を幅広い調和のとれた協同組合的労働制度に」変えることによってのみ自主管理は生み出されるのである。」
自主管理と協同組合の相違点は次のようにまとめることができるのではないでしょうか。
①理想的な空想の上での「協同組合のモデル」と「自主管理のモデル」に相違はない。
②しかし現実的、歴史的な方向から考えると違いがある。
③協同組合のモデルはすべての社会的、経済的な構造において巨大な組織として社会に君臨すれば則ち自主管理となりえる。
今回は「自主管理とは何か?」の「協同組合」の部分を読み進めました。
そして中テーマである「自主管理の定義は何か?」を探るためにこれまで「参加」「共同管理」「労働者統制」「協同組合」を見てきました。
次回からは打って変わって労働者運動とプロレタリアートから自主管理について考えていきましょう。
『自主管理とは何か?』第三回 「労働者統制」
皆さんこんにちは。社会の夜電です。
今回も『自主管理とは何か?』を噛み砕いて見ていきます。
前回は共同管理の章を読んでいきました。
共同管理は手段のみを労働者が選択できるのに対し、自主管理は手段、目的ともに選択できるという違いがありました。
さて今回は「労働者統制」を読んでいきます。
【労働者統制という言葉の意味】
まずは言葉の意味について触れていきましょう。労働者統制という言葉を調べるとコトバンクにはこのような記述がありました。
「…広義には,資本主義のもとで職場・企業における資本家の経営権限を侵食し,労働者による自主決定=自治の領域を拡充していく営みと,公有化された経済体制のもとで労働者が管理主体として各レベルの運営を担う営みの双方をさすが,狭義には前者を労働者統制とし,後者を労働者管理おして峻別する。…」
〈出典:https://kotobank.jp/word/労働者統制-1440254〉
いやはやとても長いですね(`・ω・´)
ここでは労働者管理という言葉についての説明の中で労働者統制について触れられています。
要するに、労働者統制とは会社、企業の経営権を労働者のものにするということです。
【労働者統制と共同管理との比較】
前回お話しした共同管理と労働者統制を比較して『自主管理とは何か?』には次のように述べられています。
「彼らは決定権を企業主と《分け合》わなければならない時よりずっと実質的な形で《自主管理》しているということになる」(p30)
前回もお話ししたポイントですが、経営の決定に参加するのが共同管理です。これに対して労働者統制は決定に参加するのではなく、それ以上に決定権さえ握ってしまうところに違いがあるようです。つまり労働者統制の方が共同管理より労働者の自治が認められるということです。
【労働者統制と自主管理の違い】
「企業の経営の決定権さえも労働者が握ってしまったならばそれは自主管理と言えるのではないか?」
こう思う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、『自主管理とは何か?』には次のように説明されています。
「労働者統制は自主管理に向けての前進としては共同管理よりずっと偉大なものであるが、それはまだ自主管理ではない。なぜか?まず第一に、この統制が賃金制度も、生産の全体面における資本家たちの指導的役割をも問題にしないようないくつかの点に対してしか行使されたいないからである。これは、労使双方のいずれか一方を無くすことによって階級対立を全面的に除き去ろうとする全体行動であるというより、むしろ敵を悩ませるだけのものにすぎない。」
「闘争のこの段階では、労働者は自分たちだけで工場を指揮することも、どのような物を製造すべきかの決定権さえも要求しない。この点では、労働者協同組合の方が自主管理に近いのではないだろうか?」(p30)
説明されているポイントは労働者統制の行使の範囲が自主管理に比べて狭いということ。そして労働者協同組合の方が自主管理に近いモデルだということです。
(※労働者協同組合については次回説明します。)
では労働者統制の行使には具体的にどのようなものがあるのでしょうか。
本書には例として次のような記述がありました。
「《労働者統制》は労働条件の改善や、その方が望ましい場合には搾取形態の若干の緩和、そうしたものを生じさせるような譲歩を企業主から奪い取るためのー主としてストライキの際のー闘争的介入と解されている。イタリアにおいて、とくにフィアット社の労働者がとったのはこのような行動であった。」(p29)
労働者統制で労働者に与えられた行使の具体的なものを全て列挙できるほどのデータは集まりませんでしたが、ここには一例として労働条件の改善やストライキが行われたようですね。
労働者統制の中で労働者が具体的にどんな行使を行えたのか、もし他にもデータがわかる方がいらっしゃいましたら、ご指摘くださいませ。
【まとめ】
今回は労働者統制を読み込んでいきました。
今回のポイントは以下の通りです。
①労働者統制は企業の経営の決定権を握る。この点で、決定への参加しか持たない共同管理とは異なる。
②自主管理に比べれば労働者による行使の範囲が限定的。
次回は「協同組合」を読んでいきます。