相対主義と唯物論的弁証法はどこに違いがあるのか
このことをレーニンが詳しく説明しています。
参考文献はこちら。
「唯物論と経験批判論」
レーニン全集の14巻、159ページから。
「認識論の基礎としての相対主義は、われわれの知識の相対性の承認であるばかりでなく、われわれの相対的認識がそこへ近づいていく、客観的な、人類から独立して存在する、尺度またはモデルをどんなものでもいっさい否定することでもある。むきだしの相対主義の見地からすれば、あらゆる詭弁を正当化することができるし、ナポレオンが一八二一年五月五日に死んだか死ななかったかを「条件的」だと認めることができるし、科学的イデオロギー(ある点で「便利な」)とならんで宗教的イデオロギー(他の点できわめて「便利な」)を容認することを人間または人類のためのたんなる「便宜」であると宣言する、等々のことができる。…(中略)…マルクスとエンゲルスの唯物論的弁証法は無条件に相対主義をふくんでいる。しかし、それに帰着するものではない。すなわちそれは、われわれのすべての知識の相対性を、客観的真理の否定という意味でみとめるのではなく、われわれの知識がこの真理に近づいていく限度が歴史的に条件づけられているという意味でみとめるのである。」
レーニンは唯物論的弁証法=マルクス主義は相対主義の要素もあるよーって言ってる。
これどういうことかって言うと、
ものの見方って限界があるよねって話。
で、ものの見方ってその時代とか場所、環境によって限界があるよね。そういう意味で知識同士は相対的ってこと。
例えば太陽は東から登って西に沈むよね。
でもこれも場所によって違うわけ。
あらゆる物事は具体的な諸条件に規定されているって考えるのが唯物論的弁証法だからね。
例えば、水が沸騰するのは水の温度が高まるっていう具体的な条件があるからだし、
人間が生きていけるのは、食べ物や空気など人間が生きられる具体的な条件が整ってるからだ。
人間がどの空間でも生きられるとか水はどんな状況でも沸騰した状態ってのはあり得ない。
そういう意味で唯物論的弁証法=マルクス主義は絶対主義ではないんだよ。
客観的な真理はある。しかしその真理にたどり着こうとするまでにあらゆる見方、考え方ってのは間違いをはらんでるんだよ。例としてニュートンの万有引力の法則もアインシュタインが万有引力の法則の部分的な間違いを発見して相対性理論を出した。でもその相対性理論にも間違いがあることが最近の量子力学の研究によってわかってきた。
そういう意味ではあらゆる見方が相対的なの。
でも客観的な真理自体は相対的ではないわけ。
これがマルクス主義の考え方なんだ。
所感
社会の問題嘆いても
何にも変わってはくれない
ただ資本主義という檻の中で働かされるのみ
ただ今は自然を見て、本を読み、音楽を嗜んで日々を暮らしたい
それがこの世の中で唯一私の心を癒してくれる