それん君のマル研ノート

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弁証法的思考を株式投資に活用する

株式投資においても普遍と特殊の関係が重要。

普遍(株式投資の諸々の法則や理論)もその時代の諸条件の中で生み出されたもの。これからの未来との関係で言えばそれは普遍であるかもしれないし特殊であるかもしれない。

だからむやみやたらにかつての投資家達の言葉を鵜呑みにしてはいけない。特殊性に目をつけることが必要。米国株か日本株か。バリューかグロースか。どのセクターか。また同じセクターという普遍性の中でも各会社ごとの特殊性が存在する。その特殊性を見なければならない。また同じ会社でも各年度を分けてみればそこに特殊性があるかもしれない。普遍性(理論)を極端に拡大すれば破滅する。だから関係性の中で法則を見出すのが大事。

チャートパターンもこれに同じ。

かつてのチャートパターンたとえばcup with handleもあくまでその時代のその時期において普遍性をもっていただけ。

個人投資家、ロビンフッターの参入によってこの普遍性も特殊性に変わる可能性アリ。

量的変化が質的変化をもたらすとはこのことである、

 

 

 

 

 

「すなわちあらゆる硬化したものは解消され、あらゆる固定したものは消え散じ、永久的であると思われていた特殊なものの一切は一時的なものとなり、全自然は永遠の流 れと循環との中で運動するものと確認されたのであった。」

p32 自然の弁証法 上巻 岩波

 

 

「どんな時代の理論的思考も、従ってまたわれわれの時代の理論的思考も、一つの歴史的な産物 で、この産物はいろいろな時代にすこぶるいろいろな形を、従ってまたすこぶるいろいろな内容 をとっている。思考についての科学もまた他のあらゆる科学と同様に一つの歴史的な科学であ り、人間の思考の歴史的な発展についての科学である。」p51 自然の弁証法 上巻 岩波

 

 

「自然並に歴史におけるどんな科学の領域にあっても、与えら れた事実から出発すべきであり、従って自然科学にあっては物質の様々な物的な形態と運動諸 形態とから出発すべきであり、だからまた理論的自然科学にあっても話”のつながりを諸事実の 中へ持ち込んで構築するのではなく、却って諸事実の中からそれを見付け出すべきであり、そし て見付け出したならそれを経験に即してできる限り検証すべきものである」p56 自然の弁証法 上巻 岩波

 

 

「偶然的なものはそれが偶然的なるが故に一つの根拠を持ち、しかもそれが偶然的なるが故に同じくまた何等の根拠をも有さない。偶然的なものは必然的であり、必然性は自分自身を偶然性として規定し、また他面この偶然性はむしろ絶対的な必然性である、と。(『論理学』第二部、第三書、第二章「現実性」。」自然の弁証法 下巻 岩波

 

 

「運動のあらゆる形態は、それぞ れの場合に対して確定している諸条件のもとで、直接または間接に、運動のあらゆる他の形態に 転化することができるものであると共にまた転化せざるを得ないものでもある概念の判断、 しかも必然的判断、 判断一般の最高の形態。」p81 下巻 岩波

 

 

 

「観察の経験知だけでは決して必然性を十分には立証し得ない。これの後で、しかし これの故にでない(「エンチクロペディ』第一部、四頁)。これはまことに正しいのであって、太陽が 朝いつも昇ることからは太陽が明日また昇るであろうということは帰結しない。そして実際われ われは今日、太陽がひと朝昇らない一時点が来るであろう、ということを知っている。けれども 必然性の証明は人間の活動の中に、実験の中に、労働の中に、存するのである。すなわち、もし 私がこの後でを作り得るなら、それはこの故と同じになる。」p89-90 下巻 岩波

 

「歴史的にとれば、このことも或る一定の意味を持っていたかも知れない、すなわち、われわれはただわれわれの時代の諸条件のもとでだけ認識することができ、しかもとの諸条件が及んでいる限りてだけ認識することができる、との意味を。」p112 下巻 岩波

 

 

 

フォイエルバッハ論】

「いつかいわゆる絶対的真理を発見して、もはやそれ以上進め ず、手をこまねいて、得られた絶対的真理をおどろきながめる以外になにもすることがないとい うような点に達することはないのである。そして哲学的認識の領域においてそうであるように、 その他すべての認識の領域においても、また実践的活動の領域でも、そうである。 認識と同じよ うに、歴史もまた人類のある完全な理想的状態のうちに完結点を見いだすというようなことはな い。 完全な社会とか、完全な「国家」とかいうようなものは、ただ空想のうちにしかありえない 以低到扇的 ものである。これに反して、つぎつぎとあらわれてくるすべての歴史的状態は、低いものから高 いものへと進む人間社会の果しない発展の行程における一時的な段階にすぎない。それぞれの段 階は必然的であり、したがってその段階を生みだした時代と諸条件にたいしては正当である。し かし、それは、それ自身の胎内でしだいに発展してくる新しい、より高い諸条件にたいしては、 存在理由と正当性を失い、より高い段階に席をゆずらなければならなくなる。そしてこのより高 い段階自身にもまだ衰え亡びる順番がまわってくる。」

p17

 

 

「しかし人が研究にあたって常にこうした観点から出発すれば、 最後的な解決とか永遠の真理とかいうものへの要求は、きっぱりと、 消えうせてしまう。人は、すべての獲得された知識が必然的に制限されており、それが得られた ときの事情によって制約されているということを常に自覚している。他方また人はもはや、真理 と誤謬、善と悪、同一と差異、必然と偶然というような、今なお一般に行われている古い形而上 学では克服できない諸対立に威圧されはしない。人は、これらの対立が相対的な妥当性しかもっ ていないこと、現在は真理と認められていることも、そのうちに誤謬の側面をひそめていて、後 にはそれが現われてくるし、同様に現在は誤謬と認められていることにも、真理の側面があり、 そのためにかつては真理として通用しえたのだということ、必然と主張されているものが偶然事 のみから組立てられており、偶然と言われているものが、その背後に必然をひそめている形式で あること、等々を知っている。」

p63

 

 

 

【空想より科学へ】

形而上学的な見 かたも、対象の性質に応じてそれぞれの範囲を持つところのかなり広い領域にお いて正当であり、必要でさえあるにしても、おそかれ早かれかならず限界によっ かって、それからさきでは一面的な偏狭な抽象的なものになり、解決できぬ矛盾に 迷いこんでしまう。それはこの考えかたが、個々の事物にとらわれてそれらの連関 を忘れ、それらの存在にとらわれてそれらの生成と消滅とを忘れ、それらの静止に とらわれてそれらの運動を忘れるからであり、木を見て森を見ないからである。」 【 エンゲルス「空想から科学へ」