それん君のマル研ノート

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政府に反対する=日本の敵なのか?

時の政府に抗う者達は日本の敵なのだろうか?

いやそんなはずはない。

佐賀の乱西南戦争で戦った反政府軍が日本の敵でないのと同様に。

西郷隆盛が日本の敵でないのと同様に。

時の政府に対して異を唱えることは、日本の為を思い反対する限りにおいて日本の敵では決してない。

 

『私のマルクス』

 

p9「ヨセフ・ルクル・フロマートカ(一八八九〜一九六九年)というプロテスタント神学者に惚れ込んでしまう。フロマートカは、政治に深く関与した神学者であり、常に誤解されていた。しかし、フロマートカは、イエス・キリストを信じるものは、他の宗教や思想を信じる誰よりもこの世界を現実的にとらえることができると考えた。」

 

p21「ヘスはマルクス達たちと訣別し、マルクス主義とは別の流れの社会主義運動を作ろうとした。イエスは一八六二年に『ローマとエルサレム』を執筆し、イスラエル建国を目指すシオニズムのイデオローグとなる。」

 

p28「私が見るところ、マルクスの文体は三回変化している。初めは少年時代だ。マルクスギムナジウム時代の作文、イェニー(将来の夫人)に宛てた詩集『愛の書』(一八三六)から一八四一年の学位論文「デモクリトスエピクロスの自然哲学の差異)頃までの文体だ。ロマン主義の臭いが強いが、比較的素直な文体である。その後、第二期は、モーゼス・ヘスとの関係を深め、「ライン新聞」に寄稿し、更に『独仏年始』(一八四四年)、経済学哲学草稿(同年)、『聖家族』(一八四五年)、『フォイエルバッハに関するテーゼ』(同年)を著するまでの文体だ。」

ヘーゲル左派の言い回し

ユダヤ教のタルムード学の手法に近づいてい

 

p39「「福本イズム」(階級意識が確立したエリート職業革命家集団の党を作るべきであると言う一九二〇年代日本共産党に影響与えた福本和夫の思想)」

 

コヘレトの言葉(伝道の書)

「 何事にも時があり

天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

生まれる時、死ぬ時

植える時、植えたものを抜く時

殺す時、癒す時

破壊する時、建てる時

泣く時、笑う時

嘆く時、踊る時

石を放つ時、石を集める時

抱擁の時、抱擁を遠ざける時

求める時、失う時

保つ時、放つ時

裂く時、縫う時

黙する時、語る時

愛する時、憎む時

戦いの時、平和の時

 

人が労苦してみたところで何になろう。

 

私は、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宣にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。…

「トロツキーの思想』YouTube動画 参考文献の詳細まとめ

p41

「永続革命」論対「一国社会主義論」という社会主義の前身と建設の方法をめぐって公然化した。

p60

トロツキーにとって我慢ならないのは、ブルジョワ革命とプロレタリア革命を別々の段階としてとらえ、当面するロシアの革命はブルジョワ革命、したがって革命の担い手はブルジョワジー、プロレタリア革命はまだ当分先の事と主張する教条マルクス主義者たちであった。

p253

この「永続革命」論は、先進資本主義国の社会主義革命よりむしろ、ロシアのような後発資本主義国そして、従属国、植民地のような文字どおりの発展途上国家の革命理論として、きわめて重要だと考えるからである。

 

p256〜257

ブルジョワ革命完遂後、必然的にプロレタリア革命までいかざるをえないロシア革命の歴史的過程の中で、プロレタリアートと農民の利害の衝突は不可避であることも十分に承知して

p262

ロシア革命の三つの概念」

1ナロードニキ主義

2プレハーノフのマルクス主義

3レーニンマルクス主義

4トロツキーマルクス主義

 

p266

社会主義建設は、ただ民族的ならびに国際的規模での階級闘争を基礎にしてはじめて可能である。」

はじめに社会主義革命は、「民族的舞台で開始」されるのだが、「民族的境界内での社会主義革命の完成は考えられない」。民族の舞台で開始された社会主義革命は、さらに国家相互間に、最後には世界的舞台にまで発展させられる。かくして、社会主義革命は、言葉のより新しく広い意味において、永続革命となる。広い意味において、永続革命となる。

 

p310

とりわけ総人口の五パーセントを占める特権官僚層の存在を指摘したサハロフの指摘が注目をひいた。

 

フランスのソ連学者C・ベトレームは、ソ連を「特殊な型の資本主義」と定義

 

 

アメリカのマルクス主義者P・スウィージーは「資本主義でも社会主義でもない新しい階級と定義

 

 

トロツキーとレーニンの違い

p257

プロレタリア前衛党が農業プロレタリアートまたは貧農を掌握することはたやすいが、農民一般を獲得することは至難であり、また農民がブルジョア的要求をもちつづけている限り、プロレタリア独裁すら内部から揺るがせられるだろう。したがって、トロツキーのいう「農民に支持されたプロレタリアート独裁」も、レーニンのいう「労農民主独裁」もロシアと言う特殊な歴史的条件下でやむなく、歴史に強いられて考え抜かれた独裁形式であったといえよう。

 

p254

 レーニンの「労農民主独裁」概念と「農民に支持されたプロレタリアート独裁」と言うトロツキーの考えとの微妙な差

マルクス『経済学・哲学草稿』岩波2008 参考資料

マルクス『経済学・哲学草稿』岩波2008

 

第一草稿 疎外された労働

P84「…最後に資本家と地主との区別が、耕作農民とマニュファクチュアとの区別と同様に消滅して、全世界が裕さん者と無産の労働者という両階級へ分裂せざるを得ないということを、われわれは示してきたのである。」⇒IT技術の進化⇒労働者(ホワイトカラー

)の没落

 

p86「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多くつくればつくるほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界のかつ増大にぴったり比例して、人間世界のかつ低下がひどくなる。労働がたんに商品だけを生産するのではない。労働は自分自身と労働者とを商品として生産する。しかもそれらを、労働が一般に商品を生産するのと同じ関係のなかで生産するのである。」

 

P87「さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、ひとつの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない。労働の生産物は、対象の中に固定化された、事物化された労働であり、労働の対象化である。国見民経済学的状態のなかでは、労働のこの実現が労働者の現実性剥奪として現われ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、〔対象の〕獲得が疎外として、外化として現れる。」

 

p89「したがって労働者は、これらの二重の側面に応じて彼の対象の奴隷となる。第一に、彼が労働の対象を、すなわち労働を〔対象から〕受けとるということにおいて、そして第二に、彼が生存手段を〔対象から〕受けとるということにおいて、対象の奴隷となる。それゆえ、第一に彼が労働者として、そして第二に肉体的主体として実存できるために、彼は、彼の対象の奴隷となるのである。」

 

p92「そのため労働は、ある欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足させるための手段であるにすぎない。」

 

p92「労働の外在性」⇒「労働者の活動は、彼の自己活動ではないのである。労働者の活動は他人に属しており、それは労働者自身の喪失なのである。」

 

p93「(1)労働者にたいして力をもつ疎遠な対象としての労働の生産物にたいする労働者の関係。…(中略)…(2)労働の内部における生産行為にたいする労働の関係。」

第二草稿私有財産の関係

 

P109「したがって労賃は、他の一切の生産用具の維持、修繕、また資本一般の、利子を伴って再生産されるに必要な消耗、車輪を回転させるために使われる油などと、まったく同じ意味をもっている。だから労賃は、資本および資本家たちの必要経費に属しており、そしてこの必要〔やむをえずを要する〕ということが要求する範囲を超えてはならないのである。」

 

p109「生産は人間を、一つの商品、人間商品、商品という規定における人間として生産するばかりでなく、この規定に対応して、生産は人間を、精神的にも肉体的にも非人間化された存在として生産する。—労働者や資本家の不道徳、不具、奴隷主義〔Helotismus〕―それの生産物は自己意識をもった、また自己活動的な商品である。」

 

第三草稿 〔二〕〔私有財産共産主義

P127「最後に、共産主義止揚された私有財産の積極的表現であるが、さしあたりは普遍的な私有財産である。共産主義はこの関係をその普遍性においてとらえるので、共産主義は、(1)その最初の形態においては、私有財産の普遍化と完成とであるにすぎず、そのようなものとして共産主義は、二重の形態で姿を現わす。第一に、物的な所有の支配があまりに大きくこの共産主義の前にたちはだかっているので、そのためこの共産主義は、私有財産として万人に占有されないあらゆるものを否定しようとする。」

 

知を生み出す知、誰も見たことがない知を見出すための知 それが大学で学ぶ意味

なぜ知を生み出す知が必要なのか⇒人間が生きる意味を見出すため、どうしたら幸せに暮らすことができるのかを考えるため、どうしたら二度と悲しい悲劇が起こらないかを考えるため、その心を身に着けるため

社会主義の考察 第十回 ユーゴスラビア 労働者自主管理社会主義 原稿

社会主義の考察 第十回

ユーゴスラビア 労働者自主管理社会主義

 

「六つの共和国、五つの民族、四つの宗教、三つの言語、二つの文字―これが一つの国家にまとまっている!」

インドの哲学者ラダクリシュナン

音楽

貧困と格差

 

社会主義の失敗

 

資本主義の危機

―――――――――

 

ナレーション】

「かつてバルカン半島にその国はありました。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国。チトーが率いたこの国はスターリンに反対。人道主義を起点とし独自の社会主義を推し進めました。しかし現在、かつての姿はありません。

 

いったいこの国で何が起こったのか。

社会主義の考察。

第十回はユーゴスラビア独自の社会主義に迫ります。

 

 

 

音楽

貧困と格差

 

社会主義の失敗

 

資本主義の危機

 

 

我々はどこに向かうのか

タイトル】

ユーゴスラビア 労働者自主管理社会主義の歴史

 

 

 

ナレーション】

ユーゴスラビア共産党第二次世界大戦においてヒトラー率いるナチスドイツやムッソリーニ率いるイタリアと戦います。

ユーゴスラビアソ連の支援を受けずに戦い抜きます。

しかし戦後、新たな困難が立ちはだかっていました。

 

「効果音」

【タイトル:ソ連との大きな溝】

 

ユーゴスラビアソ連との間に大きな溝がありました。

そのきっかけは第二次世界大戦中に遡ります。

 

当時ユーゴスラビア共産党ソ連の支援を受けずに第二次世界大戦に勝利しました。

しかしスターリンユーゴスラビア共産党への支援はないものの当時ユーゴスラビアから亡命した王国政府を支援していたのです。

このことからユーゴスラビアソ連スターリンとの間に溝が生まれていきます。

 

 

 

 

第二次世界大戦後の1948年ルーマニアで採択されたコミンフォルムの第三次大会。

コミンフォルムは、ユーゴスラビアマルクスレーニン主義を裏切り、国際主義を裏切り民族主義の道を進んだとして、強く批判します。

 

 

スターリンの影響下にあったハンガリーブルガリアアルバニアユーゴスラビアとの貿易を制限。

 

1947年当時のユーゴスラビア

東欧諸国からの輸入が輸入総額の56%。

ユーゴスラビアから東欧諸国への輸出は53%でした。

その為ユーゴスラビアの経済は困難を極めます。

 

しかしその後ユーゴスラビアは1950年代から60年代にかけて大きく経済を発展させます。

 

 

ユーゴスラビア独自の社会主義路線】

 

労働者自主管理社会主義

 

働く人が自ら職場を管理するというこのモデルがユーゴスラビア独自の経済路線を打ち立てました。

なぜユーゴスラビアは自主管理社会主義を推し進めたのか。

 

そこにもスターリンの影響がありました。

 

 

 

1940年代ユーゴスラビアスターリンの圧力のもと農業集団化を開始。

 

しかしその政策の誤りはユーゴスラビアの指導部にとって明らかでした。

ユーゴスラビアの指導部は後の人民議会でこのことを振り返ります。

 

「わが国の諸条件のもとでは、共同耕作にもとづく土地集団化は、農業における労働生産性の向上をもたらさなかった。」【1957年連邦人民議会での言葉】p38『試練に立つ自主管理』

 

 

ユーゴスラビアの指導者の1人

エドヴァルド・カルデリも1949年連邦議会で次のように発言します。

「いかに完璧な官僚装置も、たとえ天才的な指導部をいただいていたとしても社会主義を建設することはできない。社会主義の発展は、勤労大衆による管理をますます拡大し、そうして社会主義的民主主義を不断に深化させていく以外の道をたどることはできない。」p43

 

労働者自主管理社会主義へと進む背景にはこうしたソ連指導部との対立があったのです。

 

 

こうしてユーゴスラビアは労働者自主管理社会主義へと大きく舵を切ります。

 

 

 

1950年6月

労働者自主管理に関する最初の法律が議会で可決。

 

官僚制度の撤廃、労働者による自主管理。

 

共産党は企業から一定の税金を徴収するのみに留まります。

 

何をどのくらい生産するのか、

自分たちの給料やノルマも全て働く人たち自身で決める権利が与えられました。

 

63年憲法では自主管理の範囲が拡大。

医療施設、銀行、行政、学校が給料、労働条件、報酬、将来的な事業計画に関して従業員が自主的に決定する権利が与えられました。

 

 

こうしてユーゴスラビアは大きな経済発展を遂げることになります。

 

第三次五カ年計画がちょうど終了したころ

 

工業生産の伸び率 年12%

農業生産 年率 5%

個人消費は7年間で70%もの増大

この発展は世界でも最高の水準でした。

 

それまで著しく不足していた生活必需品も生産され、一般の人々の暮らしに笑顔が戻ります。

 

 

 

しかしこの後ユーゴスラビアは大きな危機に直面します。

 

 

 

 

1973年  オイルショック

 

 

 

1973年のオイルショックは西側諸国のみならずユーゴスラビアにも大きな衝撃を与えました。

もともと膨大だった貿易赤字オイルショックにより高騰。

年率2600%のハイパーインフレを引き起こします。

 

また長年続いた赤字予算、外貨の不足により、対外債務はこの時170億ドルを超えました。

 

指導部は緊縮財政によってこれに対応。

 

この影響は一般市民へと広がります。

 

 

結局失業者数は80万を超え、ユーゴスラビアの民族の間で経済格差がどんどん広がっていきました。

「効果音」ユーゴスラビア紛争の勃発

 

1991年ユーゴスラビアの共和国の一つであったスロベニアの独立宣言。

 

これに

これに対しユーゴスラビアは戦車を送ります。

 

スロベニアの分離独立はその他の共和国にも影響を与えました。

この後ユーゴスラビアでは多くの紛争が勃発。

沢山の人が命を落としました。

 

そしてユーゴスラビアは21世紀の始まりと共にその歴史に幕を閉じました。

 

 

「六つの共和国、五つの民族、四つの宗教、三つの言語、二つの文字―これが一つの国家にまとまっている!」

1950年代。

ユーゴスラビアを訪問したインドの哲学者ラダクリシュナンはそう叫びました。

 

しかし今かつての多民族国家は存在しません。

ヨーロッパの火薬庫であるこのバルカン半島にはまだ民族の対立がまだ色濃く残っています。