それん君のマル研ノート

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社会主義の考察 第十回 ユーゴスラビア 労働者自主管理社会主義 原稿

社会主義の考察 第十回

ユーゴスラビア 労働者自主管理社会主義

 

「六つの共和国、五つの民族、四つの宗教、三つの言語、二つの文字―これが一つの国家にまとまっている!」

インドの哲学者ラダクリシュナン

音楽

貧困と格差

 

社会主義の失敗

 

資本主義の危機

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ナレーション】

「かつてバルカン半島にその国はありました。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国。チトーが率いたこの国はスターリンに反対。人道主義を起点とし独自の社会主義を推し進めました。しかし現在、かつての姿はありません。

 

いったいこの国で何が起こったのか。

社会主義の考察。

第十回はユーゴスラビア独自の社会主義に迫ります。

 

 

 

音楽

貧困と格差

 

社会主義の失敗

 

資本主義の危機

 

 

我々はどこに向かうのか

タイトル】

ユーゴスラビア 労働者自主管理社会主義の歴史

 

 

 

ナレーション】

ユーゴスラビア共産党第二次世界大戦においてヒトラー率いるナチスドイツやムッソリーニ率いるイタリアと戦います。

ユーゴスラビアソ連の支援を受けずに戦い抜きます。

しかし戦後、新たな困難が立ちはだかっていました。

 

「効果音」

【タイトル:ソ連との大きな溝】

 

ユーゴスラビアソ連との間に大きな溝がありました。

そのきっかけは第二次世界大戦中に遡ります。

 

当時ユーゴスラビア共産党ソ連の支援を受けずに第二次世界大戦に勝利しました。

しかしスターリンユーゴスラビア共産党への支援はないものの当時ユーゴスラビアから亡命した王国政府を支援していたのです。

このことからユーゴスラビアソ連スターリンとの間に溝が生まれていきます。

 

 

 

 

第二次世界大戦後の1948年ルーマニアで採択されたコミンフォルムの第三次大会。

コミンフォルムは、ユーゴスラビアマルクスレーニン主義を裏切り、国際主義を裏切り民族主義の道を進んだとして、強く批判します。

 

 

スターリンの影響下にあったハンガリーブルガリアアルバニアユーゴスラビアとの貿易を制限。

 

1947年当時のユーゴスラビア

東欧諸国からの輸入が輸入総額の56%。

ユーゴスラビアから東欧諸国への輸出は53%でした。

その為ユーゴスラビアの経済は困難を極めます。

 

しかしその後ユーゴスラビアは1950年代から60年代にかけて大きく経済を発展させます。

 

 

ユーゴスラビア独自の社会主義路線】

 

労働者自主管理社会主義

 

働く人が自ら職場を管理するというこのモデルがユーゴスラビア独自の経済路線を打ち立てました。

なぜユーゴスラビアは自主管理社会主義を推し進めたのか。

 

そこにもスターリンの影響がありました。

 

 

 

1940年代ユーゴスラビアスターリンの圧力のもと農業集団化を開始。

 

しかしその政策の誤りはユーゴスラビアの指導部にとって明らかでした。

ユーゴスラビアの指導部は後の人民議会でこのことを振り返ります。

 

「わが国の諸条件のもとでは、共同耕作にもとづく土地集団化は、農業における労働生産性の向上をもたらさなかった。」【1957年連邦人民議会での言葉】p38『試練に立つ自主管理』

 

 

ユーゴスラビアの指導者の1人

エドヴァルド・カルデリも1949年連邦議会で次のように発言します。

「いかに完璧な官僚装置も、たとえ天才的な指導部をいただいていたとしても社会主義を建設することはできない。社会主義の発展は、勤労大衆による管理をますます拡大し、そうして社会主義的民主主義を不断に深化させていく以外の道をたどることはできない。」p43

 

労働者自主管理社会主義へと進む背景にはこうしたソ連指導部との対立があったのです。

 

 

こうしてユーゴスラビアは労働者自主管理社会主義へと大きく舵を切ります。

 

 

 

1950年6月

労働者自主管理に関する最初の法律が議会で可決。

 

官僚制度の撤廃、労働者による自主管理。

 

共産党は企業から一定の税金を徴収するのみに留まります。

 

何をどのくらい生産するのか、

自分たちの給料やノルマも全て働く人たち自身で決める権利が与えられました。

 

63年憲法では自主管理の範囲が拡大。

医療施設、銀行、行政、学校が給料、労働条件、報酬、将来的な事業計画に関して従業員が自主的に決定する権利が与えられました。

 

 

こうしてユーゴスラビアは大きな経済発展を遂げることになります。

 

第三次五カ年計画がちょうど終了したころ

 

工業生産の伸び率 年12%

農業生産 年率 5%

個人消費は7年間で70%もの増大

この発展は世界でも最高の水準でした。

 

それまで著しく不足していた生活必需品も生産され、一般の人々の暮らしに笑顔が戻ります。

 

 

 

しかしこの後ユーゴスラビアは大きな危機に直面します。

 

 

 

 

1973年  オイルショック

 

 

 

1973年のオイルショックは西側諸国のみならずユーゴスラビアにも大きな衝撃を与えました。

もともと膨大だった貿易赤字オイルショックにより高騰。

年率2600%のハイパーインフレを引き起こします。

 

また長年続いた赤字予算、外貨の不足により、対外債務はこの時170億ドルを超えました。

 

指導部は緊縮財政によってこれに対応。

 

この影響は一般市民へと広がります。

 

 

結局失業者数は80万を超え、ユーゴスラビアの民族の間で経済格差がどんどん広がっていきました。

「効果音」ユーゴスラビア紛争の勃発

 

1991年ユーゴスラビアの共和国の一つであったスロベニアの独立宣言。

 

これに

これに対しユーゴスラビアは戦車を送ります。

 

スロベニアの分離独立はその他の共和国にも影響を与えました。

この後ユーゴスラビアでは多くの紛争が勃発。

沢山の人が命を落としました。

 

そしてユーゴスラビアは21世紀の始まりと共にその歴史に幕を閉じました。

 

 

「六つの共和国、五つの民族、四つの宗教、三つの言語、二つの文字―これが一つの国家にまとまっている!」

1950年代。

ユーゴスラビアを訪問したインドの哲学者ラダクリシュナンはそう叫びました。

 

しかし今かつての多民族国家は存在しません。

ヨーロッパの火薬庫であるこのバルカン半島にはまだ民族の対立がまだ色濃く残っています。