労働者自主管理の平等の思想に行き着くまでの歴史的な流れ〜その2「キリスト教」〜『自主管理とは何か?』より
さて今回も労働者自主管理の平等の思想に行き着くまでの歴史的な流れを思想を通じて見ていきたいと思います。
前回は「プロタゴラス」について扱いました。
今回はキリスト教に焦点を当ててキリスト教は平等の思想なのかどうか考えていきます。
【キリスト教は平等思想?】
まずは『自主管理とは何か?』の本文から読んでいきたいと思います。
「事実、思想が普遍的概念を発見すると同時に宗教は、天上の神々の争いを引き合いにすることを止めた。そして普遍性(カトリック的性質)を考えるにいたった。たしかにその時はまだもろもろの相違を一つのモデルに収れんすることだけが問題であった。にもかかわらず使徒パウロは、ギリシア人と蕃人、ユダヤ人と異教徒の昔からの対立をなくすように努めた。以後、人々は神に比しては小さな存在ではあるが、平等になった。…(中略)…神–恐怖から神–愛への移行は平等的共同体を生み出すことになる。」(p62)
天上の神々の争いとはギリシア神話のことでしょうか?少なくとも「神々の争い」というキーワードからどうやら一神教のキリスト教ではないことが理解できます。なぜ宗教が神々の争いを引き合いに出す必要があったのか、そしてその後どうして普遍性(カトリック的性質)を考えるにいたったのか。
これについてはよくわかりませんがキリスト教の歴史を勉強して再度記事を補足していきたいと思います。
しかしとりあえずわかることはそうした諸々の歴史の後、人々は神に比べて小さな存在ではあるが平等となったようです。
そして「神がなお保たれているとしてもこの神は人間に近づき肉体さえあたえられている。」
神様を宗教画や彫刻で描くようになり、今まで目にすることができなかった神様、そもそも人間の姿形をしているかもわからないその神様を人間に見立てて描くことで想像の中のものに肉体を与えることになったのでしょう。
「神–恐怖から神–愛への移行は、平等的共同体を生み出すことになる。」
さまざまな自然災害などの神罰をもたらす神様という怖い存在から先ほど述べたように芸術の中で肉体を与えられることで神様が愛するべき存在へ移行して、これが平等的な共同体を生み出すことになったのでしょうか。
〈キリスト教の位階制化〉
「カトリック教もやがて制度化され位階制的機構となったのは周知のところである。」(p62)
しかしキリスト教は次第に位階制的なカタチになり神の前での平等がはたして本当に実践されていたかどうかは議論が分かれるところでしょう。
【まとめ】
今日はキリスト教は平等思想なのか見ていきましたが、いかんせん私のキリスト教に対する知識不足でキリスト教に平等の思想が流れているのかどうかよくわかりませんでした。
旧約聖書、新約聖書のほか様々なキリスト教に対する本を読んでまたこの記事を書いていきたいと思います。
『新しい左翼入門 相克の運動したら超えられるのか』(講談社現代新書)から参照しますと38ページにはこんなことが書かれてあります。
「まずもって、日本最初の社会主義者たちが、こぞってキリスト教徒だったということに注意して下さい。内村鑑三が有名ですね。後に共産党の在外リーダーになる片山潜も、あとの説明で何度も出てくる山川均、大杉栄、荒畑寒村といた初期社会主義オールスターも、こぞって最初はキリスト教徒でした。」(『新しい左翼入門 相克の運動したら超えられるのか』、講談社現代新書、p38)
キリスト教の思想が必ずしも社会主義と似ているとは言えない部分があるかもしれませんが歴史を見てもわかるように社会主義の思想とキリスト教の思想には親和性があるように思えます。