『自主管理とは何か?』第五回マルクスとバクーニン。それぞれのプロレタリアートの定義〜プロレタリアートとはなにか〜
今回も『自主管理とは何か?』を読んでいきます。
今回はこれまでと違ってマルクスとバクーニン。この二人が「プロレタリアート」という言葉をどのような意味合いで使ったのか読み進めます。
まずは二人がどんな人物か説明し、次にマルクスとバクーニンのプロレタリアートの定義、そして筆者の考えるプロレタリアートを端的にお話しして、最後に私たちの世代でのプロレタリアートの定義を考えていくことにしたいと思います。
【マルクスってどんな人?】
さて、まずはマルクスってどんな人なのか見ていきましょう!
マルクスの思想についてもさまざまな見方や意見がありますので、断定したある部分のみお伝えします。
マルクスは19世紀の思想家です。
ドイツ出身の思想家で世界的に有名な『資本論』という本をエンゲルスという友達と書きました。
彼の思想が(彼の理想に必ずしもあった形ではないかもしれないが)世界に影響を与え、革命が起き、ソビエト連邦や中華人民共和国などの社会主義国が建国される要因になりました。
【バクーニンってどんな人?】
続きましてバクーニンを見ていきましょう!
無政府主義の意味を説明するのはこれまた難しくて学者や団体によって色々な見解がありますが、暫定的な意味として国家を廃止してより良い社会を作ろうとする思想と思っておいてください。
彼の思想は現代にも影響を与えており、言語学者として有名なノーム・チョムスキーも彼の思想に影響を受けています。
【マルクスとバクーニン、それぞれのプロレタリアートの定義とは?】
ではマルクスとバクーニンのプロレタリアートの定義を見ていきましょう。
厳密には彼らがこのプロレタリアートというの用語を一体どのようなものか深く掘り下げて定義したかは不明ですが本書を用いて彼らのプロレタリアートという言葉の意味合いの違いや特徴を掴んでいきましょう。
まずはマルクスから!
〈マルクス〉
「プロレタリアートというのは単に《生産者》であるばかりでなく、マルクスが独特な用語を用いて言ったように《具体的普遍》、《人間という種属》でもあるという捉え方をする…」(p40)
「マルクスにおいては、革命的なプロレタリアートと経験主義的な労働者階級の間に絶えず概念の混乱がみられる。」
(同上)
「マルクスは労働者階級をまるでそれが完全に物化された存在であるかのように扱う傾向をみせている。」(同上)
「《肉体労働をする》労働者と《知的労働をする》技術者との間に経験的な隔たりがあるにもかかわらず、【マルクスの】プロレタリアートの概念は、賃金生活者の概念と同様、この両者を一つに結びつけている。」(p43)【】内は社会の夜電の補足による。
「マルクスがこの《プロレタリアート》という用語を選んだのは、元来は働く人間 travaille-ur、しかも肉体労働を行う人間の意味しかもたなかった労働者 ouvrier との対比のためであった。」(p49)
続いてバクーニンを見ていきます!
「プロレタリアートの中でも最も高貴な人びと、それは何よりあの大衆、あの何百万もの無教養な人間たち、恵まれない人間たち、貧乏人、文盲たちであると私は理解している。…彼らはブルジョワ文明によってほとんど汚染されていないため、将来の社会主義のすべての萌芽をその内部に、その情熱のうちに……宿している。」(p47)
最後に両者の相違点が引き立った文章をピックアップします。
「マルクスとバクーニンは(プルードンとは異なり)自由、プロレタリアートを概念として構築した。」(p45)
「マルクスが(バクーニンの反論にさいし)ローマの属領であった国々の労働者貴族*1を拠り所としたのに対し、バクーニンの方は、商品に対する物神崇拝とは全く無関係な《あの偉大な民衆的なごろつき連中》を拠り所としていた。」(p47)
*1[一八七一年九月、マルクスはつぎのように言っている。「労働組合は貴族少数派の代表である。貧しい労働者は組合に加入することはできない。」…](p47)
最後に筆者のプロレタリアートについての言及を参照します。
「労働を実践、世界をも変えうる人間の積極的な一部分としてみなしていたことは《マルクス主義》の(そして、とくに『一八四四年の経済学・哲学手稿』を書いた時点におけるマルクス自身の)重大な誤謬である。実際プロレタリアートは賃金労働を管理することではなくそれの廃止を目ざす場合にのみ革命的になる。なぜなら、プロレタリアートの主要な特性は働くことではなく働かないでいることだからである。」(p39)
「ブルジョア階級の《労働権》に、プロレタリアートは彼らの怠ける権利を対置させる。しかし、プロレタリアートが自分たちの階級意識を実現させ彼ら自身が《社会のすべての階級の解体を切り札とする支配階級となら》ない限り、プロレタリアートの絶対的多数は労動やブルジョア社会によって加工されたような姿で、つまり、革命ではなく改良主義(現代では、社会民主主義やスターリン主義等)を《目的》とする経験だけに頼るような、労働者階級としての姿を取りつづけることになるのである。」(p39)
「プロレタリアートの内面において疎外を超越しているもの、それは《疎外された労働》ではなく、労働拒否、自決権、普遍性である、と私は考える。」(p47)
「ブルジョワジーの否定がプロレタリアートである。商品に対する物神崇拝の影響をこうむっていて、しかも自分でそのことを知っているのがプロレタリアである。」(p50)
「プロレタリアートは、まず、ブルジョアジーとの対比において否定的な形で定義される(『共産党宣言』参照)。社会が二つの階級に政治的に分極化すること、それが–歴史における唯一の事実であると同時に–近代世界の主要傾向であるため、ブルジョワジーが生産手段を所有し、享受しているのに対し、プロレタリアートはそれを所有もしていなければ享受してもいない。…法律上の所有権はイデオロギー的上部構造にすぎず、それは別のもの、たとえば官僚制による生産手段の集団的所有のようなものによってもおき換えられうるのである。」(p48〜49)